教育部会作成要請書第39号、政府宛提出要請書第122本目、平成17年1月7日提出
伝統教育部会作成要請書第1号、政府宛提出要請書第122本目
旧「枢密院」の建物の歴史的・建築学的重要性に鑑み、
取り壊すことなく、永久保存していただきたき要請

【要請の趣旨】

皇居内三の丸地区にある旧「枢密院」の建物について、近年ふたたび取り壊すかどうかの議論が出ていると聞きます。
 しかし、この建物については、昭和58年当時、やはり取り壊しの話が出た際、憲法学者の集まり「憲法学会」の有志約40名の連名にて、この旧「枢密院」の建物は、歴史的にも建築学的にも、特別に意義のある建物なので、取り壊すことなく、永久保存の措置を講じていただきたい、との要望書が、当時の当団体会長・岸信介元総理宛に提出されたので、当団体にて審議した結果、その主張を合理的理由ありと判断し、そこで、昭和59年1月、添付のような政府宛要誓書を起案作成し、時の中曾根康弘内閣総理大臣に提出しました。
 これを受け取った中曾根総理は、公務御多忙の中、早速、皇居三の丸内にある旧「枢密院」建物の取り壊しを中止して下さいました。
 そこで、当協会では、その後、この建物を、例えば、戦前・戦中・終戦にわたって重要事項を審議した枢密院の資料館にするとか、この建物が皇居清掃奉仕団の休憩所前にあることから「皇室資料館」として活用することを企画提案しました。
 しかし、問題は、この「枢密院」なる官庁が、戦後、廃止されたため、この建物を活用するためには、どこかの省庁が本籍官庁として名乗りを挙げてくれなければならず、そこで、当協会執行部は、これまでに、宮内庁、皇宮警察本部、文部省、文化庁、警察庁、総理府など各省庁に、本籍省庁となってくれるよう、陳情いたしましたが、各省庁とも、修理・管理などの予算をとるためには、自省庁の別の予算を削らなければならない、などの理由で、名乗りを挙げてくれないまま、今日に至ってしまいました。
 そこで、この際、小泉総理にぜひ、この「枢密院」の建物を御視察いただき、保存、そして活用の途を、御指示くださいますよう、ここに、要請申し上げる次第であります。

以下、昭和59年1月に、中曽根康弘内閣総理大臣に提出した要請書


【要請の趣旨】

皇居三の丸地区にある旧「枢密院」の建物は、現在「皇宮警察本部」として使用されておりますが、このたび「皇居警察本部」を別の場所に新築するに伴い、老朽化したとの理由から、該建物を取り壊すとして、その予算(2,500万円)も計上されたと聞く。
 しかし、この旧「枢密院」の建物は、かつて明治憲法下で、国務と皇室の重要事項につき、天皇陛下の諮問にお応えするべく、歴代総理はじめ国家の重鎮よりなる枢密顧問官にて構成された「枢密院」(いわば、国政の最高諮問機関)の本拠となった建物であって、それだけに、数多くの歴史的由緒を秘め、また、大正11年に完成したその建物は、鉄筋コンクリート2階建、左右完全対称形で、これがのちに、現在の国会議事堂のモデルとなったとされるほど美術的かつ重厚なる建造物であり、日本建築学会(清家清会長)も「由緒ある貴重な建物」と認定しており、しかも、当時、慎重に設計・施工されたので、建物自体はなお堅固である。
 したがって、いまこの建物を取り壊すことは、歴史上・建築学上、美術上、大きな損失というべく、むしろ、その取り壊し予算を、修繕費に廻して、永久保存の措置を講じ、今後、この建物を、例えば「皇室資料館」などとして、有効に活用せられるよう、ここに請願する。
 その保存を要請する歴史学的、建築学的根拠は以下の通りである。

【要請の理由】

1、枢密院は、明治憲法下で、重要な国務や、元号制定、皇籍離脱などの皇室の重要事項について、天皇陛下の諮問に応えることを主たる役割とした、国家の重要な合議機関であった。
2、その構成は、議長、副議長各一名と枢密顧問官24名からなり、歴代の総理大臣経験者など国家の功労者をはじめ、成年以上の皇族、時の国務大臣なども、これに加わった。また別に書記官長、書記官、秘書、その他事務官がおかれていた。
3、枢密院の庁舎は、元は現在の国会議事堂のところにあったが、大正9年4月、現在の皇居地内に着工され、翌10年11月に完成をみた。本館は、鉄筋コンクリート2階建(1,316平方メートル)で、完全な左右対称形をしており、慎重に設計・施工されたため、関東大震災にも損傷をうけず、太平洋戦争中も、附属の木造建物には若干の被害があったが、この本館は全く無事であった。
4、この建物が、大正11年以降、敗戦後の新体制まで、枢密院の本拠として使われ、階上には、議長室、副議長室、顧問官室、書記官長室、書記官室などがあり、階下には、正面突き当たりに審議委員会室があり、その他、秘書官室や文書、会計など各種の事務室がおかれていた。
5、枢密院の本会議は、階下の御親臨の下で開かれるため、宮中で行われたが、御諮詢案件中重要なものは、若干の顧問官からなる審査委員会に付議されるのを常とし、したがって、多くの歴史的重要案件が、この審査委員会、または顧問官にて、審査せられた。
6、この枢密院の建物が出来た大正10年以降の枢密院議長は、山形有朋、清浦奎吾、浜尾新、穂積陳重、倉富勇三郎、一木喜徳郎、平沼騏一郎、近衛文麿、原嘉道、鈴木貫太郎、そして清水澄の各氏で、みな2階の議長室で執務され、また、政・財・軍・官・学各界の練達俊秀の士が、顧問官室に勤務された。
7、審査委員会の開会は、慣例上、主務大臣の出席を必要条件としたため、審査委員会には、高橋是清、加藤友三郎、若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、犬養毅、斉藤実、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、東条英機、小磯国昭、幣原喜重郎、吉田茂の各氏が、総理大臣として、または国務大臣として出席し、議案の説明、答弁に当たられた。
8、こうして、大正10年以来、審査委員会室において審査された重要案件は、枚挙にいとまがないが、戦前、戦時中にかぎらず、敗戦後も、現在の「日本国憲法」案が、この枢密院の審査委員会にかけられ、幣原、吉田両総理、松本、金森両国務大臣が説明・答弁に当たられ、その際、高松、三笠両殿下も、枢密顧問としてオブザーブされた。
9、さらに、右の日本国憲法案ばかりでなく、現在の皇室典範、衆参両院議員選挙法、裁判所法、内閣法、財政法、教育基本法などの重要法案も、すべてこの枢密院審査委員会での審議の所産である。
10、かくして、この枢密院の建物は、大正10年以降の戦前、戦時中、そして昭和22年5月の新体制までの、国家の重要書案件を審議した場所として、歴史上貴重な意義を有する建造物であるので、徒らに取り壊すにはしのびない歴史的・文化的遺産というべきである。
11、また、当該建物は、前述のように、大正10年の完成とはいいながら、当時、慎重に設計・施工されたため、建物じたいはなお堅固であり、修理を施せば今後も十分使用に耐えうるものである。
12、この枢密院の建物は、後に現在の国会議事堂のモデルとなったとされるほど、左右完全対称の重厚な造りで、正面車寄せの円形列柱、大理石階段、玄関ホールのモザイク貼り、美しい天井の装飾など、美術的にも優れたものである。
13、これについては、日本建築学会(清家清会長)も、「由緒ある貴重な建物」に指定しており、また、最後の枢密院書記官長の諸橋襄帝京大学法学部長も、「最近、久しぶりに訪ねてみたが、あまりガタも来ていないようで、シャンデリアやじゅうたんがなくなったほかは、外観も当時とほとんど変わっていあない。大正時代の官庁としては、唯一の現存する建物で、その上、ひじょうにスマートで上品で威厳もあるので、文化財としても十分価値があるのではないか」と証言している。

 以上の諸理由からも明らかなように、この旧枢密院の建物は、歴史的・建築学的・文化的・美術的に、きわめて貴重な保存意義があると考えられるので、取り壊しの予定を中止し、むしろその予算を修理費の一部へ充当し、この建物を現在地に永久保存する措置を講ずるとともに、これを例えば「皇室資料館」とするなど、有効に活用せられるよう、ここに要請する。

  昭和59年1月吉日

                        旧「枢密院」建物の保存を推進する会
                              発起人代表  岸 信介

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