歴代会長の人物・努力

初代会長 岸信介元総理

国家の興亡

 左の掛け軸は、清原淳平が、岸信介先生が総理の時に御面識を得たのが御縁で、岸先生が創設された「財団法人 協和協会」につき、昭和53年11月にその常務理事兼事務局長を拝命。翌年から、政・財・官・学・民の各界名士に入会を要請して回り、百名ほどの入会を得て、月例講話会を開始。活発な活動を始めたことを賞し、昭和56年春に頂戴した書を、掛け軸に表装したものである。『国家の興亡を以て己の任となし、個人の生死を度外に置く』と書かれている。なお、為書(ためがき)の下には、「蒋中正閣下の語を録す 信介」と書かれている。中正は、蒋介石総統の号(本名のほかにつける雅号)である。岸先生は、蒋総統のこの言に共鳴されていたが、表現は一部、日本風漢字に書き直しておられる。
 岸信介と言うと、その内閣での「日米安全保障条約」改訂において、反対するデモが発生し、訪日途中であったアメリカのアイゼンハウアー大統領に対し、岸信介総理も訪日を辞退せざるを得なくなった外交上の責任、いま一つは、国会へ押し寄せたデモ隊の中で、女子大生の樺美智子さんが群衆に押されて圧死したこと、のために「日米安全保障条約」改訂の批准書の交換(成立)を待って総理を辞任されたいわゆる「安保騒動」の時期に、当時の評論家やマスコミにより、岸信介を非難攻撃する本が沢山出たが、それらの本が種本となって、いまも、それをなぞったり、色づけして、岸信介先生につき、「右翼」「極右」「軍国主義者」とか「悪徳」「悪運」とかを冠にして本を出版しているが、実際に岸信介の言動に接した者としては、それは、人間像が余りにも異なっている。上記に挙げた趣意書からしても、岸信介は、志の高い傑出した人物であることを、知っていただきたい。
 岸信介元総理は、昭和62年春に体調を崩され、8月7日15時41分、心不全のため、東京医科大学病院にて御近親者ならびに御交際の深かった方々が、なんとか御回復をと見守る中、残念ながら、御逝去された。私も、病室内の後方に立っていたが、滂沱の涙を禁じえなかった。まさに巨星落つであった。


2代会長 福田 赳夫 元総理大臣 

誠是天道

 岸信介会長は、その一年ほどまえから、御自身、体調不良を感じられたのか、ある日、私が呼ばれて、日本石油本館3階の岸事務所へ参上し、お目にかかると、突然「君に実務担当してもらっている4団体について、後継会長を決めておきたいので、来てもらったのだ」とおっしゃる。私はびっくりして、「いえ、お元気でいらっしゃいますのに、なにをおっしゃられますか」と申し上げると、岸信介先生は「いや、私はやがて90歳を迎えるから、後任を決めておきたい。私も元気なうちは会長を続けるつもりだが・・・・。だが、君もそういうなら、会長代行ということにしよう。君は、後任会長に、だれがよいと思うかね」とおっしゃる。
 そこで、私は「いえ、後任会長というようなトップ人事は、私あたりが、お名前を挙げるわけにはいきません。それは、先生御自身でお考え下さい」と申し上げた。すると、岸先生は呵々大笑されて「分かった。では、ひとり言としよう」と言われ、しばらく考えられたあと、「財団法人 協和協会は、これは、福田(赳夫)君が一番よいだろう。しかし、問題は、自主憲法の方だな。憲法改正は福田君はあまり熱心でないからな。総理経験者に改憲に熱心なのは、う〜ん、おらんな。すると、議長経験者の中から選ぶか。するとなんだな。この7月に参議院議長を退任した木村睦男君ぐらいだな。では、私から、協和協会は福田君にお願いしよう。また、木村君にも私から、お願いしよう」とおっしゃった。私は、岸信介先生の、各団体を思うお気持ちにふれ、感動した。
 そこで、その昭和61年のたしか10月、私は、赤坂プリンス脇の清和会の二階にある福田赳夫先生の執務室に参上しお願いし、書いていただいたのが、左上の色紙(「誠是天道」)である。この色紙は、その年の11月25日発行の機関誌『提言』に掲げさせていただいた。福田赳夫先生も亡くなるまで会長を務めて下さった。

第3代 櫻内義雄元衆議院議長

 前記第2代会長・木村睦男元参議院議長は、亡くなられるまで、体調を回復して、当関係3団体を統率するつもりでおられたので、後継会長を決めておられなかった。当団体は役員会を開き検討した結果、(財)協和協会が、福田赳夫会長御逝去後、櫻内義雄元衆議院議長に、会長をお願いしていたので、当団体も、櫻内義雄元衆議院議長にお願いしたい、と決したので、清原淳平専務理事からお願いに出て、御快諾をいただいた。
 義雄先生のお父上は、商工相、農相、蔵相などを歴任された櫻内幸雄衆議院議員。義雄先生は、慶応義塾大学経済学部を卒業され、鐘紡に入社されたが、昭和13年応召を受け、中国戦線で右腕貫通銃創を受けたため除隊。
 父上・幸雄蔵相の秘書を経て、昭和22年、東京一区で衆議院議員。のち参議院議員も務めたが、昭和27年、父上の選挙区・島根全県区を承継、通算18回当選。その間、通商産業大臣、農林大臣、建設大臣、外務大臣などを歴任され、平成2年〜同5年まで衆議院議長として、名議長と謳われた。平成11年3月には、議員在職50年の特別表彰を受けておられる。
 第3代会長・櫻内義雄先生は、平成14年4月5日に当団体会長に就任されたことにより、岸信介元総理が創立された4団体すべての会長に、逝去されるまで、就任してくださっていた。
 櫻内義雄先生の書はない。前掲のごとく大戦前の中国戦線において、右腕に貫通銃創を受けたため、右腕がやや御不自由だったからである。しかし、誠実なお人柄のゆえに、御高齢であっても、いろいろと御尽力くださった。政府へ要請書を提出する時には、みずから総理のところへ出向いてくださった。平成15年7月5日逝去、91歳。

第4代会長 塩川正十郎衆議院議員(運輸、文部、自治、財務各大臣)

 第3代会長・櫻内義雄元衆議院議長逝去後、後任者につき役員会を持った結果、国務大臣内閣官房長官はじめ多くの大臣を経験された塩川正十郎先生を推戴することになり、清原淳平専務理事がお願いに出たところ、快く御承諾下さった。(平成15年10月7日就任)
 塩川先生は、平成15年10月の政界引退前から、東洋大学理事長、日本武道館会長を務めておられたが、引退後に東洋大学総長に就任。テレビ・新聞・雑誌などで忌憚のない発言が評判となって、「塩爺」(しおじい)との愛称で呼ばれる。沢山の役職のため、毎回出席というわけに行かず、90歳を機に平成21年、会長を引退される。 


第5代 江ロ一雄会長代行(元衆議院議員・防衛・運輸政務次官・厚生常任委員長)

 第4代・塩川正十郎会長が90歳を機に引退されたあと、役員会で後任者の選考に入ったが、総理や議長経験者の中では意見調整がつかなかった。しかし、協会トップをいつまでも空席にして置くわけにゆかないので、教育部会長を務めて下さっている江口一雄元衆議院議員に会長代行をお願いすることとなり、塩川前会長も賛成され、役員会で決定した(平成21年7月2日就任)。江口先生は、県議会議員在職中から、所有地7千坪を無償提供して、千葉県八千代市に「八千代松陰学園」を創立され、理事長を務めておられ、その御人徳は広く知られている。
 政界では、総理・議長クラスの方の後任は、同等の肩書の方にお願いする慣習がある。役員会では、恐縮しつつ江口一雄先生に、会長代行をお願い申し上げた。

現在は会長代行 岸信夫衆議院議員

〔岸信夫先生御略歴〕
 平成27年4月1日付にて、当財団の会長代行・代表理事に就任。当財団の創立会長・岸信介総理は御祖父であり、安倍晋三総理は御実兄。 
 岸信介先生も、御出生時は佐藤家であったが、のちに、ゆかりの深い岸家を相続された。同様に、岸信夫先生は、御出生時は安倍家であったが、母方の岸家を相続された。佐藤栄作総理は大伯父にあたる。即ち、岸信夫先生は、血縁・戸籍上ともに、岸信介総理の直系の御孫である。そうした御血統からも、当財団の会長代行就任は、誠に正統といえる。
 その御経歴は、1959年(昭和34年)4月1日生まれ。長じて慶應義塾大学経済学部を卒業され(昭和56年)、住友商事に入社し、アメリカ、ベトナム、オーストラリア等に勤務。平成14年退社して、政治家の道を志し、平成16年7月の参議院通常選挙に出馬して初当選。平成22年7月の通常選挙にも再選を果たす。福田改造内閣・麻生内閣において、防衛政務官を務める。
 そして、平成24年11月16日の衆議院解散を受けて、同30日、参議院議員を辞職して、山口二区から衆議院選挙に出馬し、民主党候補を破って見事当選し、衆議院議員。翌平成25年9月の安倍晋三内閣で外務副大臣。次いで、平成26年12月の衆議院解散による総選挙でも再選を果たす。平成28年8月〜29年8月まで、再び外務副大臣を務める。その後、平成29年10月の衆議院解散による総選挙で三選を果たす。その後、衆議院議員運営委員会筆頭理事・自民党国会対策筆頭副委員長を務め、令和2年9月、菅義偉内閣で防衛大臣に就任。防衛大臣在任中は、清原淳平代表理事兼専務理事が代行を務める。