(公財)協和協会の設立にいたる経緯
1)昭和49年設立にいたる事情
A)その前提となる岸信介総理大臣時代
岸信介元総理を会長として、昭和49年12月、「財団法人協和協会」が設立された当時の事情を記すにあたっては、その遠因として、総理大臣を務めた当時の事情に触れておきたい。
一般に、総理大臣をある年月務めると、その方の余生を全うするため、その内閣で閣僚を務めた人や財界・経済人が音頭をとって、団体を設立し、その総理を会長に据える慣習がある。
岸信介総理は、昭和32年2月25日に総理に就任、辞任したのが昭和35年7月19日で、三ヶ年余、すなわち1241日間、総理を務めた。
岸信介先生は、戦前、商工省工務局長を経て満州国実業部総務司長に転出し、満州国開発5ヶ年計画を立案する。そして満州国の産業部次長、総務庁次長として満州国の重工業化を実現するなど、大きな成果を挙げ、昭和14年10月に帰国して商工次官、昭和16年10月には、日本政府の商工大臣となった。
そうした実績から、戦後、昭和32年、総理大臣となった時は、経済政策の専門家と見られていた。たしかに、総理となるや、大蔵省の実力者・池田勇人と日銀総裁を務めた一万田尚登を競わせ、経済の充実に務め、経済・財政政策において着々と成果を挙げ、世界に先駆けてわが国に国民年金制度を実施するなど、その後、大きく経済発展する基礎を作っている。
しかし、岸総理は、「経済は官僚がやってもできるので、総理は何か問題が生じた時に関与すれば足りる。総理の本来の仕事は、外交であり、安全保障であり、国内の治安である。」として、太平洋地域の新生アジア諸国を歴訪し、アメリカへも何度も訪問し、アイゼンハワー大統領とはゴルフを共にし、一緒にシャワーを浴びるなど、裸の付き合いをしている。
岸信介先生の考えは、昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコのオペラハウスにおいて、ソビエトを除いた、アメリカを始めとする主要国と、いわゆるサンフランシスコ講和条約に調印して、占領下を脱し、国際社会の一員となり、独立主権国家となることを許されたのだから、日本は独立したというならば、独立国にふさわしく憲法を改正すべきだと考えた。
すなわち、岸信介先生は、日本国憲法第9条〔戦争放棄〕の章は、(1)陸海空軍の不保持、(2)武力行使の永久放棄、(3)(独立主権国家には国際法上認められる)交戦権は認めない、という三つの条件からなっており、「自分の国は自分で守る」という独立主権国家の要件に反しているから、憲法を改正して、まず独立主権国家の体裁を整え、その上で、民主主義・基本的人権尊重主義、そして侵略戦争をしない平和主義を、実現しようとしたのである。
しかし、当時、戦後ずっと、「平和憲法」という言葉に陶酔して憲法改正に反対する野党の勢力が強く、そうした保革伯仲時代が長く続いたため、日本国憲法第96条(憲法改正要件)衆参各議院の総議員の3分の2で、改正案を国会が発議し、その発議案を国民投票にかけ過半数の賛成を得て改憲が成立する、という条件を充たすことができないでいる。
そこで、岸信介総理は、保革伯仲で憲法改正の発議もできない段階で何をするかを考えて、日米安全保障条約の改訂に取り組んだのである。というのは、上述のように、昭和26年(1951年)9月8日調印のサンフランシスコ講和会議のあと、吉田茂総理と米側で締結された「日米安全保障条約」は、独立を許されたとはいえ、軍事力のない日本は、国連憲章第51条の「集団的自衛権」によって、アメリカに守ってもらうよりほかないので締結されたわけである。
しかし、昭和26年9月8日締結の「日米安全保障条約」は、アメリカが一方的に日本を守るという片務的・属国的内容なので、それから10年近く経って、日本の自衛隊も充実してきたので、同条約を改訂して双務的・対等的・相互防衛的な内容に改訂すべきである、との信念に基づいて、アメリカにその改訂を求めたのである。
岸信介総理のこの提案に、アイゼンハワー大統領も合理的なものとして同意した。そして、その改訂案の検討に入り、成文もまとまったので、両国の批准書の交換を待って、岸信介総理は、アイゼンハワー米大統領の訪日を要請し、アイゼンハワー米大統領も同意した。
ところが、昭和35年6月10日、米大統領訪日の準備のために派遣されたハガチー秘書が乗った自動車を、日米安保条約改訂に反対するデモ隊が、羽田で包囲したため、同秘書は米軍のヘリコプターにより救出されてアメリ力大使館に入った、という事件が発生した。これに対し、アメリ力国内では、そんな非礼な国に、大統領が行く必要はない、との声が上がった。当時は、今日のように機動隊が整備されておらず、岸信介総理は、アイゼンハワー大統領への訪日要請を取り下げざるを得なかった。
そして、さらに、6月15日の夜、国会へ押しかけたデモ隊の中にいた女子大生の一人が、国会の門前で群衆に押されて圧死する、という事件が発生する。岸信介総理は、この報に接して、日米安保条約改訂の批准書交換(成立)を待って、総理大臣を辞任する決意を固めた、とのちに、清原淳平に語っている。7月15日、岸信介内閣は総辞職した。
B)総理辞任後の岸信介先生
(未完)
その後の政権は、岸元総理の「憲法を改正して真の独立主権国家の体裁を採った上での民主主主義・基本的人権尊重主義・平和主義」という路線は、頭では理解しても、長く続いた保革伯仲の時代、日本国憲法第96条の「衆参各議院の総議員の3分の2以上を要する改憲発議の条件」が充たされないこともあって、その後の各政権は、自己の政権を危うくすることからは避ける方針をとった。実の弟の佐藤栄作総理、田中角栄総理、そして自分の派閥を譲った福田赳夫総理には、期待をされたが、やはり動かなかった。
そこで、昭和49年の田中角栄内閣の末期、岸元総理に近い方々が相談した結果、岸信介元総理を会長とする団体を用意することになり、岸信介先生と相談の上、「財団法人協和協会」が設立された、という経過である。「財団法人協和協会」設立にあたっての設立趣意書を、次項にかかげておく。
2)昭和49年設立当時の「財団法人協和協会」の趣意書
我が国の経済は世界にも稀な成長をしつづけて来たにもかゝわらず、石油問題に見られるような全世界的なエネルギー資源不足、食糧不足等我が国の自立が果してこのまゝで保ち得るか。
また、諸国家間の対立、緊張の中で現在我が国の政治経済運営の在り方を以て果してこのまゝで我が国の自主的な発展が可能であるか。
更に国内においては世界的な諸物価の高騰インフレによる労使の対立は社会的危機に発展するおそれがあり、その上政治的左右の対立は日を追ってはげしさを増し、教育の中立さえ失われつゝあり、我が国が一元的な自主国家として維持していく上に重大な危機が到来している。
今こそ全国民が個々の利害を越えて一丸となり、我が国の自立のために総力をあげねばならない。
昭和49年12月28日
財団法人 協 和 協 会 会長 岸 信 介
3)当財団の精神として追加された「浪人訓」
昭和54年1月16日の当「財団法人協和協会」の発会式にて、岸信介会長の挨拶に感動して、木村篤太郎元衆議院議員・初代法務総裁・初代保安庁長官、大勲位旭日大受章が、その場で、矢立を取リ出し、半紙にさらさらと書いて、参会者に披露したところ、一同賛成し、この文言を当「財団法人協和協会」の精神の一つに付け加えることになった。以下は、その書。のちに、木村篤太郎先生は、これに、『浪人訓』なる題名をつけられた。