「旧枢密院」建物保存・活用運動の経緯
──30年ぶりに皇宮警察本部となる──
1)「枢密院」とは、明治21年、大日本帝国憲法の草案を審議するため、伊藤博文公により始められた。翌明治22年制定の大日本帝国憲法に「諮詢ニ應ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」る機関とし明記された(第56条)。明治の元勲、成年以上の親王からなる枢密顧問官で構成され、議長・副議長を置き、主要大臣も加わった「天皇の諮問に応える合議機関」である。審議事項は、元号の制定、皇籍離脱など皇室の重要事項と、重要な国務に関する判断で、戦前・戦中・戦後にわたった。例えば、戦後も現在の「日本国憲法」はじめ、内閣法、財政法、衆議院議員選挙法、新皇室典範等々の法律を改廃する審議が行われ、歴史的意義は極めて大きい。
「枢密院本会議」は、皇居内宮殿で天皇御臨席のもと開かれるので、「枢密院」内では、天皇へ御答申するための下審査の会議を行った。内部には、議長室・副議長室・顧問官室があり、また書記官長室、書記官室、下審査をする顧問官会議室があり、事務官や職員も勤務していた。
この「枢密院」建物は、大正8年着工、同10年11月完成。鉄筋コンクリート2階建の本館と両翼に木造平屋建の付属建物からなり、延べ1739m2。左右対称の重厚な造りで、正面車寄せの円形列柱、玄関ホールのモザイク張り、天井の装飾も見事であり、当時、構想されていた現在の国会議事堂のモデルともいわれるだけに、小さいながら外観はよく似ている。
2)新憲法の成立により、枢密院が廃止されたあと、法務省や総理府の一部が入居していた時期もあるが、昭和44年からは皇宮警察本部が全面使用していた。しかし、雨漏りなどが生じたため、皇宮警察は、昭和58年春に、その隣地に本部を新築し、それに伴い「旧枢密院」を取り壊す旨が発表され、その予算も計上された。この取壊し発表に対して、日本建築学会の清家清会長から、建築学的にも貴重な建物であると反対があり、「枢密院」最後の書記官長を務めた諸橋襄帝京大学法学部長が「憲法学会」に属していたこともあり、昭和59年秋の学会で、40名ほどの学者が連著して『旧枢密院建物の歴史的・建築学的重要性に鑑み、取り毀すことなく永久保存していただきたき要請』書をまとめ、清原淳平経由で岸信介元総理に提出された。岸信介当団体会長は、合理的理由ありとし、学界からだけの要請書では弱いから「財団法人協和協会」との合同で政府へ提出するよう指示があり、そこで、要請書を時の中曽根康弘総理に提出した。その結果、総理は視察に出向かれ、取壊しを撤回され保存を決定してくださった。
3)しかし、活用運動は、「枢密院」建物を引き受ける官庁が出ず、20数年苦労した。平成17年に時の総理に改めて要請書を出したことも功を奏し、7年にわたって補修・改装して、このたび、「皇宮警察本部」となり、当財団の要請書が、30年ぶりに実現をみた次第である。